ファースト世代からのガンダムSEED擁護論






ガンダムSEEDは、どうしてこんなにアンチの語りが激しいのか?

今年に入ってから、特にそんな傾向がめだってきた。

戦争のゴール/目的が2クールを過ぎても明確にならず、キャラクターのセリフや性格が前のエピソードを忘れたかの様に変わる、戦闘シーンが少ないうえに主人公が覚醒するや単調に終わってしまう、一度出たが名前すら呼ばれなかったキャラクターが、再登場するエピソードでいきなりタイトル(「カガリ再び」)に入れられたりするなど、全体的にみると各エピソード間の統制がゆるく、質的にもクリエーター側の新たな挑戦、旧作をのりこえようとする意思が感じられない・・・ということのようだ。

森田繁氏(脚本、特殊設定)は、「ファースト世代からの『反発』はむしろ望むところだといい、あなたが平成生まれの方ならば、この作品はあなたたちのものだ、と。昭和生まれの方なら、この作品はあなたの子供たちのためのものです、 と。もし子供がいないなら……早く結婚して子供を作りなさい、ということかな(笑)。」と語っているとのことである(オフィシャルファイル・メカ編より)。

これは、過去の作品と質的に比較されても、それは詮ないことと言いたいのだと思われる。つまり、すでにガンダムについて知識が十分にある人、アニメーションの過去の名作を知っている人は、比較のためにわざわざ見てくれなくて結構と、忠告してくれているのだろう。

古いガンダムファン、古いアニメマニア向けの作品ではないのだと頭を切り替えれば、新たな挑戦をしているシリーズだということが見えてくる。ガンダムアニメをガンダム好きが見るという今までの常識にとらわれなければ、SEEDの薄さは意図的なものだと分かるのである。

子供同士が相手を利用するだけのセックスをしたり、主人公が感情を爆発させ頻繁に泣いたり、何か起きてるぞ、と視聴者に感覚的・情緒的インパクトを与えられる記号や伏線だけちりばめておく。前後のエピソードとのインテグリティを重視せず、どんどん出来事が起こり、そして忘れ去られていく。毎週見ていない人や、予備知識のほとんどない人でも楽しめる、TVドラマと同様の手法をとっている。

皮肉も込めていえば、これが「日本が世界に誇るアニメビジネス」の現代風モードなのだろう。

なぜこうなっているのか。その背景には、アニメを見る人のテイストの拡散が進んで、ほとんど一般人と変わりがなくなっていることが指摘できる。

80-90年代は、好きな人が好きな人(あるいはその予備軍)に向けて作るのがアニメーション業界の商売で、さらにその昔、60-70年代は、子供向け作品を、アニメの地位向上をめざして自分たちの存在を社会にアピールするために、一所懸命濃く作っていたため、大量の濃いファンが発生した。濃いクリエーターでないと、厳しい環境下で生き残れない時代でもあった。

今は、社会全体がサラリーマン化したので、大人も子供も薄くなり、そういう人々のテイストに奉仕することへと、成功の基準が置き換わったのだろう。「(SEEDは)ガンダムでなければいけない作品です」という福田己津央監督の発言の趣旨は、クリエーターとして質の高いガンダムを新たに作り出す挑戦をする、という意味だと皆誤解しているが、実は「新しいアニメ視聴者にアピールする、ガンダムテーマパーク的な薄い内容と質の作品を意図的に作る」という決意を示したものではないか。

「古いオタクの時代の終わり」、「濃いクリエーター全盛の時代の終わり」、そんなエポックメイキングなガンダムを、バンダイは作ろうとしている。考えてみれば、ターンAガンダムという歴史に残る文芸的な作品を作った後で、商売に徹したガンダムを作ろうとするのは理解できることである。

ガンダムについてすでに知っている人を頼った商売を続ければ、将来ジリ貧になってしまう。敵味方に分かれて多数出てくる大河原ガンダム、少年向け、少女向けの萌え要素満載、半端に詳しい兵器設定、記号的な人の死、どうしようもなく薄っぺらな友達関係、人の心を動かそうとする安易なシチュエーションの継ぎはぎ。これらは、過去のガンダムと比較できる少数者には陳腐と思われるだろうが、多くの一般人にとっては、関心が感覚的に留めさせられる取っかかりとして機能しよう。福田監督は、あえて叩かれ役を引き受けて、これらをちりばめているのだろう。

これまで、富野由悠季氏以外が手がけたガンダムのテレビ作品ではそれぞれ、監督の個性やこだわりが出ていた。ガンダムに大見得を切らせ、プロレスをさせた「G」は言うに及ばず、「W」では戦争のなかの個人に美学的なフィルターをかけ、モビルドール概念と闘わせてみたり。「X」では、戦後のガンダム世界はどうなるのかという問題をたてたり、ニュータイプ論の後始末をやろうとしていた。

SEEDは、そういう「トミノを踏まえ、のりこえる」類の冒険はせず、物語をあえて皆が知っているレベル、「パクリ」の寄せ集めに自己規制している。それは、ガンダムを知らない人が取っ付きやすい入り口を構築することに専心しているからだろう。

クリエーターとして、自分のこだわりを新たなキャラクターやストーリーに爆発させていくことを、福田監督は我慢して商売に、つまり取っかかりを増やすことに徹している。

ガンダム、ひいてはアニメに何の知識もない人に、ガンダム「ブランド」の威光で「あ、今放映してるんだ、よく知らないけど見てみるか」と思わせ、前のエピソードを一つも見ていなくても、何かひっかかって印象に残りさえすればいい。それで、買い物やレンタル屋に行った時に関連グッズを手にとってくれればいい。

アンチが増え騒がれることは、スタッフにとって「成功」の一要素なのだろうが、釣られて叩いている「ガンダムファン」たちに、自分たちがメインターゲットでなくなってきたことへの自覚が無さ過ぎるようにも思う。

業界サイドに立てば、作品に対して「これは違うよ!」などと思ってくれる人ほど、次々とアニメを見続けてくれる上顧客でありつづけてきた。特にエヴァ以降のシナリオライターは、そういう人を釣って商売するうまみを忘れられないでいる。キャラクターを大事にしない、ドキュソな展開にするほど、ダメだダメだと騒いでますます嗜癖してくれる。そういう状況を作ってきたのは、(私を含めてだが)古い屈託のあるオタクたちであり、自縄自縛の悪循環に陥っているのだ。

他方で、映像作品についての予備知識や思い入れがほとんどない人も、アニメをよく見てくれるようになり、ガンダムに抵抗が持たれない時代が確実にやってきている。

 「(美形だから)キラたん萌えー」
 「カガリ可愛い」
 「サイかわいそー。でも話としては納得できる」
 「(何の疑問もなく)ガンダム10機+αだって」
 「千千尋(せんちひ)いいよねー」(ガンダムじゃないが)

そういう屈託ない人たち相手に、今、ガンダム「ブランド」が使える!などと企業側には思われている。こんなのガンダムじゃないとか、作品としての質が・・・とか真剣に議論する人に対し、大勢の同じ作品を見ている人から、

 「フーン、そんなんで楽しいなんて本当のオタクだね。じゃあ見るのやめれば。もっとマターリ見ればいいのに」

としか思われない時代である。過去の作品の伝統、傑出したクリエーターたちのこだわりについて知識がいくらあろうと、少しも偉くない。アニメーションの消費者として大した優位性もなく、大勢の「萌え」などに埋没してしまう。作品世界への耽溺が不可能なほどの薄さが、「ガンダム」をも侵食している。よい時代になったのだと思う。

アニメについて延々と語れる人々の外側の環境が昔と大きく変わり、そういう人は大事にされなくても勝手にあらわれて、しかも忠実についてくるので、彼らは放っておいてかまわない、もっと薄い人メインの商売ができる、という判断を制作側が始めている時代。つまり、古いオタクが制作側に見捨てられうる時代が来たのだ。これは、きわめて健全な流れだ。

そういうSEED関連の商売は、これ迄のところうまくいっていると聞いている。それならば現時点で、福田監督は制約のある中で健闘してきたじゃないか、もっと評価されてもいいのでは、と主張したいわけである。

2003.2.26 石子造 記

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