兵頭二十八外相待望論
―核武装させられる日米関係から脱却するために―

 

 


 今年(2003年)1月3日のワシントンポスト誌に、「ジャパン・カード」と題されたチャールズ・クラウトハマーのコラムが載った。内容は、北朝鮮と中国ににらみをきかせるため、米国の核を日本に提供しようというものである。北朝鮮の核問題が深刻化する前から、この類の勧めはあったが、今回は3ヶ月ほどの間に、ブレジンスキー元大統領補佐官、マケイン上院議員(共和党)、そしてチェイニー副大統領と有力者が立て続けである。

 むろん、ライス大統領補佐官のいうように、日本が核武装を国益と考えるような、内外の環境は揃っていない。しかし近年、アメリカからの煽りに呼応するように、「日本の誇り」が核武装で取り戻せると考える人々が非核三原則の廃棄を唱えている。平和憲法からこの問題まで、日本人はアメリカに弱いと言わざるを得ない。アメリカの影は、左右を問わず、そこから逃れようとするほど大きくなってくる。

 というのも、2月20日、村山内閣時に防衛庁が核オプションを検討し、「核保有は不利であり、米国の核抑止力に依存すべし」と結論づけた報告書の存在が一斉にマスコミで報道され、これをアメリカへのカウンター・メッセージとした国家官僚の対応の底が知れた感があったからである。初めに結論ありきだったのに、「日本もそのくらい考えている」と言いたいエリートの自己満足が透けて見えている。

 日本の核武装は国際的な自殺行為だからありえないという「常識」が強化される一方で、「一部の意見」としての核武装カード論がトーンを上げていく。反核派は「反動」勢力を、そしてタカ派は「サヨク」勢力をダメ扱いし続ける共依存関係は安定したままだ。結局、国内の分裂は激化し、日本人の核忌避意識を疑わないのは自分たちだけで、しかも対外的には核が現実的なカードになる時はこないのだから、仕様のない議論だというほかない。

 清水幾太郎が論陣を張った(『日本よ国家たれ−核の選択』)のは、レーガン政権誕生前夜、対ソ脅威が増大した時代であった。それからおよそ四半世紀が過ぎ、平和主義と、「普通の国」になるという二つの願望が生き残った。しかし、反米愛国が望み薄である以上、反核・讃核両派の対立は擬制である。対米追従の現実的改善策を提示できない限り、両派は情緒的な自己満足のためにシンボリックな「核言説」を弄んできたと批判されざるを得ない。

 平和主義や「普通の国」化によるアイデンティティの回復を夢想する主体のあり方自体、アメリカによって種が蒔かれたものである。現在、蓋然性が高いのは、自前では運用できないアメリカから借りた核で、自衛隊が米軍の核戦略の一部に組み込まれるという帰結である。「有事」の際は、それが導入されることだろう。

 それでもかまわないと「保守」は考えているのかもしれないが、日本人の対米追従に対するコスト意識がさらに高まることを、甘く見ている。これまで対米追従が支持されていた原因として、事実上アメリカの51番目の州でありながら、民族文化的な孤立を安全に保てていた「古きよき時代のセキュリティ」があった。しかし、アメリカ文明にこれ以上巻き込まれるのは御免という、厄介な日本人の潜在意識が9・11後の日本で再燃している。過去の教訓をいかしこれを馴致するには、対米外交の平和的な革新しかない。

 今の政権は当面、対米追従の強化と、国内向けのリップサービス(「教育勅語の精神」の復活や治安強化)の二段構えでいくだろう。しかし、日本人の孤立願望はそれを欺瞞だと感じ、問題の先送りに対する不満がなおも蓄積されていくことだろう。

そこで、核武装論は、現在の無能力感を一掃したいという、日本人の無意識の欲望のあらわれとなり、また今までいいなりの日本が、いつか反撃してくるのではないかというアメリカ人の無意識の怖れを体現するものとして、ますます焦点化されていくことだろう。反核と「普通の国」論の対立激化からは、現実性がさらに薄れてしまう。結果、政府要人が核兵器への野心をいくら否定しても、内外から信用されないという、後戻りできない悪循環にとらわれてしまったように思える。

 「日本の誇り」が核武装で取り戻せるとシンボリックに信じる向きは、借り物の核兵器で満足してしまう可能性が高い。それでは、核拡散が進んで、しかもアメリカに梯子を外されたときに対処できなくなる。建前だけの平和主義を続けても、「有事」の際のアメリカへの対応には無力である(市井の反対運動はだからこそ続けられるのが健全だ)。したがって、日本国民が日本の核保有の問題を本当に深刻に考えるならば、従来とは違った考え方が必要になる。

 日本人の殆どは、核装備のコストに対して、大きな予断を持たされてしまっており、まして国家戦略として、外交政策の一部で、通常装備とセットで合理的に運用する戦略に関しては、軍事専門家という名のオタク以外にまともな判断ができる素地が、歴史的に形成されてこなかった。その裏返しで超兵器扱いするタカ派も、主権国家だから問答無用に必要だという以上のロジックがないのは困る。国防論こそ、日米安保体制の見直しのための、対外的な環境作りの宣伝を、その主任務と考えなければならない時代だ。

 今のままでは、問答無用論は国内向けでしかないため、対外的なロジックとして先行核保有国の優位性と衝突し国益を損なうばかりか、対米追従しても自分の私的領域さえ安逸ならOKという感覚をもった一般人を説得できない。

ナショナリストが真に一掃したいと願う、国家への不信や無関心は、信頼に値する統治レジームや社会経済の組織システムを、自前で構築し直すことができて、はじめて克服可能なのであって、国家公共性のイデオロギー強制や「超兵器」による武装が自動的に保障するものではないからだ。

 対米関係革新の可能性を秘めた数少ない人材の一人が、「軍学者」の兵頭二十八である。一般には兵器オタクとしてしか認知されていないようだが、彼は自らのヲタク的性質にきわめて忠実に生きてきたプラス面を十分に発揮し、アメリカを再び仮想敵国にしようと試み、対外政策中の基本オプションの一つとして、核武装論を展開している(詳しくは『日本の防衛力再考』『ヤーボー丼』参照)。

 「論核」にあたり、「それくらい考えている」というポーズを取りつつも、対米追従しか手がなく、自前の核武装についてアメリカと交渉する気のない現政権エリートよりも、はるかに国際基準にアピールするロジックを構築しているのである。少なくとも、日本には自分さえよければいい偽善者ばかりではないことを、国外にアピールできるメリットは大きい。

 ところが、軍事オタク的な文筆上の傾向が災いしてか、兵頭氏は一般には黙殺されるか、問答無用派の一員としか見なされていない。実は、兵頭氏の著作で随所に基本線が示唆されていながら(たとえば『日本の海軍兵備再考』『新しい戦争を日本はどう生き抜くか』参照)、本格的に展開されていないのが、対米外交の進め方の問題だからである。

 兵頭氏はドメスティックな「国防サークル」から出て、国際政治のなかで、どうすれば日米安保体制を現実的に変えていけるのか、その可能性を追求する役割を担うべきである。

 9・11後の、外交と国防の両立という困難な宣伝戦を生き残るために、そして何より日本が核拡散の脅威から少しでも遠ざかるために、アメリカの動向に動揺して「論核」し合う不毛な現状から脱却することが求められている。現状では、兵頭氏の言説は国内の不毛な対立図式の中のワン・オブ・ゼムに位置づけられているに過ぎず、きわめて惜しい。であるからこその、兵頭二十八外相待望論である。

 かつて、高い社会的地位にある人には、高い公共性が期待されていた。今では、そんなことを信じる人はいない。頭のいい人間ほど自分のためにしか動かない「私人」であることを、皆知っているからである。時代が変わり、自分の生活を投げ捨ててまで金儲けと関係のないトピックに賭ける潔い人格は、いまやオタクにしかいなくなってしまった。兵頭氏は、世間的に見れば一種の変人なのだろうが、実は一般社会の側がヲタを差し置いて異常になってしまった現実をよく示す、格好のサンプルなのである。

2003.4.20 石子造 記

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