ヤオイ・トラブル


―<解剖学的性別/女性性/性欲>に三重化されたヤオイ主体の自然性の解体―





これまでのヤオイ論では、ヤオイというカテゴリーを通して理解される、 特定の女性(腐女子)の存在が前提されていた。そうした言説がヤオイの利害や目的を表象するのみならず、 ヤオイを代表するとされる主体をも構築していた。ヤオイを十全かつ適切に表象する言語をつくりだすことが、 ヤオイスキーたちにとっても必要と思われていたからである。

たしかに彼女たちの生き方が誤って(例:欲求不満とか)表象され、またはほとんど無視される文化的状況が一般的なのをみれば、 そうすることが重要だと考えられてきたのも、やむをえなかったろう。

しかし今や、ヤオイ批評は、ヤオイ主体を探求しようとするまさにその権力構造によって、いかに自らが生産され、 また制約されているかを理解しなければならない。たとえば、ヤオイの抑圧のまえに存在する「女」に何らかの共通項があるのか、 あるいは抑圧されているがゆえにヤオイはむすびつくのか。 つまり、ヤオイの文化言語的実践の固有性や全一性は、男性支配的な文化構造に逆らうことで、つまりはその条件下でのみ、得られるものなのか。


実際ヤオイ的主体があると早まって主張し、それが女というカテゴリーと継ぎ目なく接続される場合、結局は威圧的で排除的な帰結をもたらす。 ヤオイというカテゴリーを安定した主体として構築することは、ジェンダー関係を無意識に規定し、物象化してしまうことにならないか。 ヤオイ主体がどこにも前提とされない場合にのみ、ヤオイをめぐる表象/代表の「政治」は前進するだろう。

すなわち、構築物としてのヤオイの位置を性別とは根本的に無関係だと理論づけてはじめて、ジェンダーは自由に浮遊する人工物となりうる。 性別を前−言説的なものとして生産すること自体、ジェンダーと呼ばれる装置がおこなう結果なのだと理解すべきである。

社会的文脈においては、身体およびその性別は言説に先立つ実体的存在ではなく、一対のジェンダーの刻印をつうじて、 はじめて構築される相対的な点にすぎない。ヤオイを女とむすびつけることは、性欲と性別を身体に限定し本質化する、 ジェンダー秩序の産物であって、そこで主体は再度印づけられ、性欲と肉体をもって練り歩く実体的身体存在となる。 ヤオイは、「それを理解できない」とする普遍の装いをまとった「一般的な他者」そして「男らしさ」の視線によって、 二重に疎外されることとなる。

差別を通じて「ヤオイ女」を生成させる、一方的、一枚岩的な男中心の意味機構などないのである。敵を単数形で見ることは、 抑圧者の戦略をこちらが無批判に模倣する裏返しの言説となってしまう。権力の磁場は、性差の軸をのりこえているからである。

私は、ヤオイスキーが体現しているのは、アイデンティティや心理的・内面的「核」の不可能性だと主張したい。 性別/ジェンダー/性欲に連続性を見出そうとするのは、社会的に設定され維持されている理解可能性の規範である。 この三者のあいだに因果関係や表出関係を打ちたてようとする欲望こそ、「ひと」としての自己同一性、 内的一貫性のゲームを強制するメカニズムである。ヤオイスキーは、「女である」「異性愛者である」存在を証明する因子、 アイデンティティを模索する思考と行為の「原因」とみなされてきたが、実は、 安定した男性性との対立的な関係を前提と考えてきたことの産物、つまり「結果」といえる。

ヤオイスキーの中に異性愛と同性愛が不安定に集中し、しかもそれが性差をこえた偶発的な属性であることが明らかな現在、 パフォーマティブで不統一なヤオイスキーたちの行為は、ヤオイ・アイデンティティとして理解されるのではなく、 理解可能性から漏れ落ちる過剰、性別/ジェンダー/性欲の連続性に対する撹乱要因として理解される。

性欲に(たとえば受/攻の)権力が内在しているからといって、それが異性愛主義や男根ロゴス中心的な権力体制を、 単純に強化増大させることにはならない。ヤオイにおける異性愛権力関係のパロディ的な反復は、 オリジナルかつ自然と考えられている異性愛が、じつはまったく観念上の構築物、 理想の喜劇的なコピーにすぎないことを逆照射的に暴露するものである。

性欲に、性別との連続性によって「本物」「真正さ」を付与しようとする社会からみた、ヤオイの浮遊性および、 アイデンティティの理解可能性から逃れるおさまりの悪さこそが、ジェンダーを現在の位置にとどめようとする力を混乱させる。 同一性(アイデンティティ)の場所だったはずの身体に、境界侵犯的な、多層な性が集中している様子を明らかにするからである。 自然化されているジェンダーの意味をパロディ的に増殖させ、脱自然化・流動化させるヤオイスキーの快楽追求の行為は、 本人たちの意図とは関係なく、ジェンダー・トラブルを引き起こしつづけているのである。

もちろん、パロディが攪乱的になるかどうかは、パロディの笑いをオリジナルの真正性と置き換えることのできる文脈や受け皿次第である。 ヤオイがジェンダー的に様式化され、それを信仰するモードにしたがい演じられることで達成される反復行為である以上、 個々の身体は個別の差異ゆえに完全にそれと同一化することは不可能であり、「ヤオイ・アイデンティティ」はつねに完全なものにならない。 反復実践の現場では、パスティーシュの効果によって、単純な反復に異を唱える「変種」が生み出される可能性がつねにあるのだ。

したがって、ジェンダーとヤオイをつなごうとする論の可能性は、 ヤオイ的な実践の反復をいかに理解可能にしていくかではなく、どのように反復されているのか、反復を通して、 既存のジェンダー規範がいかに笑われ、置換されていくかをみていくことにあるといえるだろう。

2003.10.2


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